いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

選択と集中

叔母がいる。
母の妹である。

彼女は、離れた地に住んでおり、
毎年お盆と正月に帰省する。
その時は、必ず深夜高速バスを利用する。

昨晩、母から電話があった。
「ねえ、◯◯ちゃん(おばさんの名前)の高速バスのチケットを
インターネットで予約してあげてよ。」
ピーク時のチケットのため、電話予約では
なかなかつながらない。
暇にしているだろうと私をあてにしてきた。
「いいよ。」
二つ返事で引き受けた。

昨年も同じ依頼があった。
そのとき私はしぶしぶ引き受けた。
口にこそ出さなかったが、
「もうこっちも忙しいんだからね!!」と言外に込めて
「いいよ」といやいや返事をした。
母も叔母も、60代となったが
70代、80代でもパソコンを駆使する人がいるのだ。
人を当てにせずに、自分でもやってみたらと
その時の私は苦々しく思ったのだ。

今思う。
どうして、そんな意地悪だったんだろう。
やれる人がやったらいいじゃないの、と。
できる人がしたらいいじゃないの、と。

自己責任という名の下、いつしか
みんながみんな一様に、同じことを同じように
やらなければならない雰囲気が漂っている。

ひとそれぞれ、一人一人能力は違うのに
どうして同一の自己責任を求めるのか。
母と叔母が、「できないことはできない!!」
と言い通すのは、大げさに言うと「選択と集中」のお手本のようなものではないか。

頼んだら、次は私が引き受ける。
頼まれたら、次は相手に頼めばよい。
その未来を思い描けるから、
できないと声を上げ、ヘルプを求める。
そう、自分が苦手なことは、苦手だと声を上げればいいのだ。
それは、わがままでも、身勝手でも、怠惰でもなく、
社会が円滑に回って行くための機動力なのだ。
おばさんの図々しさは、社会を発展させるのだ!!

そう、おばさんとなった今、
苦手だ!!嫌いだ!!できない!!手伝って!!
素直に言えるようになって初めて気がついた。
苦手や嫌いを克服することは、自信を回復すると同時に
排他主義の危険をはらんでいることを。

嫌いなことは嫌い。
苦手なことは苦手。
私の嫌いや、苦手なことは
好きで得意な人に頼めばいい。
そしてその逆も必ずありだ。
その輪が広がり、誰もが素直になったとき
最も効率的、合理的かつ温かいおばちゃん社会が形成される。

今朝、ちゃんと、予約とれたよ、◯◯ちゃん!!
(叔母のことを私もちゃん付けで呼んでいる)