いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

ともだち100人の呪詛

ちょっと前の新聞に、引きこもりの記事があった。
引きこもりというと、独身の人のイメージが強いが
主婦にも多くの引きこもりがいる。
これは、大変だ、なんとかした方がよいというような
記事だと受け止めた。

一日のうちの会話は、ほぼ家族だけで
日常の買い物や用事以外は、普段でかけることのない私は
まさしく、引きこもりである。

だけど、そうして生活することが何ゆえ問題なのだろうか。

確かに、本当は、働きたいのにとか
本当は、人と交流したいのにとか
望まずして、引きこもっている人がいれば
行政が手を差し伸べる必要はあるのかもしれないけれど

日常の家事をこなすことに喜びを感じ
その環境で、自分が生きているという幸せを感じられれば
それでいいんじゃないんだろうか。

友達の数や交友関係の広さを自慢する人がよくいる。
まあ、私は、そういう人をあまり信用しないけれど
そのことに人生の価値をおく人がいてもいいと思うし
逆に、少ない友達と狭い交友関係の中で
人間関係を築いていくことに価値を見いだす人もいる。

引きこもりの定義に当てはまると
その人の人生を貧しいと決めつけ
かわいそうだから、社会とつながらせてあげなきゃと
いうのは、為政者の傲慢ではないだろうか。

こういうとき、私は、「一年生になったら〜」の歌が思い浮かぶ。

「一年生になったら〜、ともだち100人できるかな〜。
100人で食べたいな〜、富士山の上でおにぎりを〜。」

もしや政府の価値観は、この歌に凝縮されているのではないかと思うことがある。
国民はみな、100人の友達がほしいと望み
100人みんなとお弁当が食べたいと願っている。
そしてそれを実現せねばならないと
まるで新1年生のように、本気で思っているのではなかろうかと。