いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

私の趣味

今、英語の勉強にはまっている。
高校生向けの学習動画を見ながら、文法をなぞったり
アプリで発音の練習をしたり
英検の過去問をやってみたり
単語を覚えたりしている。

私は、時々、こうやって「勉強」をすることがある。
世界史だったこともあるし、数学だったこともあったし
はたまた、簿記やファイナンシャルプランナーなどの資格試験のこともあった。

こういう自分のことを
私はずいぶん長いこと、
なんて勤勉なやつなのだ、、と過剰評価していた。
勉強好きな自分のことを、自分で偉いなと思っていたが
どうも、これは大いなる勘違いのようである。

私の勉強は、いわゆる趣味に近い。
実生活のためにとか、仕事上のスキルアップとかいう勉強は
全くやる気が出ないし、頭に入らない。
役に立つとか役に立たないとか、そんなことは基本考えずに始めているところからし
趣味に近いというより、完璧に「趣味」である。
何しろ、自ら進んでやる上に、めちゃめちゃ楽しんでいるのだから。

「勉強」などというから、勘違いしてしまうのだ。
勉強をすると褒められるというイメージから抜け出せないから、勘違いしてしまうのだ。

普通、子どもというのは「勉強」すると褒められる。
それは、つまり、子どもは勉強が嫌いで勉強をしない前提があるからだろう。
ところが、私は、子どもの頃「勉強」をしていた。
嫌いどころか、好きだった。

ひとはなぜか、嫌いなことや苦手なことをすると褒められて
好きなことや得意なことばかりすると叱られる。
なんでだろうなあ。

私も子どもの頃、勉強をすると母親に叱られた。
勉強ばかりしてないで、家の手伝いをしなさいと叱られた。
生活に必死だった家庭では、勉強より、目の前にある生きるためのことが
優先されるのだ。

するなと言われることは、したくなるのが人の常。
だから、私は、子どもの頃から、勉強がしたくてたまらなかった。
飯の種にならない勉強に対する憧れが強かった。
誰にも文句言われずに、好きなことを好きなように勉強したかっただけなのである。

大人になってからも、気の向くままに勉強するのは
私にとって、「勉強」は単なる「趣味」だからである。
勉強で偉くなりたいとか、出世したいとか、お金を儲けたいとかいうより
勉強をして過ごす時間が好きなのである。
勉強の先にあるものではなく、勉強をしている瞬間しか見ていないのである。

こんな自分でありながら
勉強をすれば、褒められるというイメージに縛られ
自分で自分のことを勤勉でエライだとか
思っていたなんて、あーー、恥ずかしすぎるわあ。

子どもの頃から、ずっと人生の暇つぶしに憧れ
今もまだ、それを続けている、、ただそれだけなのである。
ただそれだけが楽しい。
ほらね、やっぱり趣味でしかない。