いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

感謝なんていらない

若い若い年端もいかない子どもたちが

何かのたびに感謝の言葉を真っ先に口にするようになったのは

いつの頃からだろう。

例えば、最近では、スポーツ選手が競技後のインタビューで

結果への感想や自己評価を言う前に

何が何でもという感じで真っ先に周囲への感謝の言葉を言う。

それを真似してか、高校生や中学生たちも感謝の言葉を口にする。

あれを聞くたびに心がざわついてしまう。

 

保育園の卒園式に始まり、小中高校の卒業式

へたをすれば、小学校以降、学年最後の授業参観なんかで

「お父さん、お母さん、ありがとう」なんて言われたりする。

感動して涙を流す人の傍らで、なにかがスーッと冷めていく。

「感謝ってそんなに手軽に沸き起こる???」と思ってしまう。

 

多くの人にとって、感謝という言葉の最も近い対象は、親だろう。

だけど、わたしは、その親になかなか感謝の気持ちが湧き起こらなかった。

親元を離れれば、結婚すれば、子どもを持てば、親のありがたさがわかるなんて

よく言われるけれど、一人暮らしで家を出ても、結婚しても、子どもを産んでも

心の底から本当に、感謝の気持ちが湧き上がることはなかった。

結婚式の日に、父の日に、母の日に「ありがとう」と言ったり、手紙を書いたりしたこともあったけれど、半分はイベントにのせられて、半分はそう思わなきゃいけないのかなという自己強制だった。

本物の「感謝」の気持ちが自分の心の底からわいてきたのは40歳のとき。

父が亡くなって、しばらくしてからである。

 

わたしは、親が子供を育てるのは「当たり前」だと思っている。

年長者が年少者のお世話をするのは「当たり前」だと思っている。

それは、動物として本能に突き動かされた行為だから。

だから、私は、若いころ親に感謝なんてしなかった。

親として当たり前でしょと思ってたから。

 

そうして、親に対して感謝の気持ちを抱かなかった子どもは

やがて親となった(私のこと)。

自分が親に育てられたのは、当たり前だと思ってきたから

親になった自分が子どもを育てるのは、当たり前だと思っている。

本能に突き動かされて否が応でもやってしまう行為

種の保存のために遺伝子に組み込まれている行為に対して

観念的な感謝の言葉は、とうてい似つかわしくない。

 

子どもたちは、若い人は

生物として、守られ、育まれるべき存在なのである。

彼らの口から「感謝」の言葉が述べられるたびに

そうさせている何かに気味の悪さを覚える。

 

子ども達に、若い人に、大きい顔をして

もっともっと図々しく生きてほしいと思う。