構成員が意見を出し合い、組織にとって最良の意思決定をする。
つまり、自分たちのことを自分たちで話し合って決めること。
それを民主主義というらしい。
日本は民主主義国家ということになっているので
私たちには、子どもの頃から、いろんな話し合いの場に参加する機会がある。
小学校の学級会に始まり
中学生、高校生、大学生になれば、さらに話し合いの機会が増える。
部活動やサークル、各種委員会の定例的な会合。
学内行事にあわせ臨時的に組織される実行委員会による会合。
生徒全員参加の生徒総会なるものまである。
もちろん、大人になれば、会合の数に拍車がかかる。
サラリーマンなら、部署や仕事内容などによって会議がいくつもあるだろうし
自営業の人でも、業種による組合や協会などの会議があるだろう。
地域社会では、町内会とかマンションの管理組合とか
子どもがいれば、学校のPTAとか子どもたちの活動にかかわる保護者会とか。
この世の中、いったいどれだけ民主主義の場があるんだろうと思う。
ワタシにとっては、
最初の民主主義の場、小学1年生の学級会に始まり
最新では、先日の部活の保護者会。
かれこれ40年以上、民主主義を実現すべく
断続的に話し合いに参加してきたことになる。
だけど、回を重ねるごとに
話し合い=民主主義なのか?と思うようになってきた。
特にメンバーが多数で、互いをよく知らない場合
また、役回りで自分事でないことを決める場合
空気を読みあったり、推測でモノを話し合ううちに
声の大きい人が、話し合いを仕切りはじめ
声の大きい人が話し合いの流れを作ってしまうことがよくあった。
声の大きい人が民主的な人とは限らないし
声の大きい人は多分にして、権力欲や支配欲が強い。
ちょっと油断していると、その場の空気の流れで
民主主義とは対極のところにいる人が
話し合いという民主主義の場を支配するという皮肉が起こる。
民主的でない人が民主主義社会を率いるという悲劇が生まれる。
話し合う人たちの心に民主主義がなければ
話し合い≠民主主義。
たやすくつながってしまう。
安倍政権以降、この国では、国会がその機能を果たせていない。
情けない国会に成り下がったのは、他人事ではなく、自分事なのだ。
場の雰囲気に飲まれ、空気に流され、話し合いの場で自分の意見を言う勇気のなかった自分。
そんな自分を反省して、心から強く思う。
声の大きい人を野放しにしてはいけない。