いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

自己肯定感の矛盾

朝起きたら、ラジオをつける。

ラジオを聴きながら、朝のルーティンが始まる。

朝はまだ、体も頭も半分眠った状態なので

ラジオの音は、ほぼBGM状態。

そこから発せられている情報は、たいてい右から左へと流れていくのだが

今朝は、違った。

聞こえたきた音をワタシの耳はキャッチした。

それは、「自己肯定感」の話。

 

北海道教育委員会の小中学生を対象とした体力調査で

「自己肯定感の高い子どもほど、運動能力が高い」ということが

分かったというもの。

 

へ?

単純に思った。

順番が逆じゃない?

 

「自己肯定感」が高いから「運動」ができるではなく

「運動」ができるから「自己肯定感」が高まるんじゃないの?

 

「運動」の部分にほかの言葉を当てはめてみよう。。

①自己肯定感が高いから「勉強」ができるのではなく

「勉強」ができるから自己肯定感が高まる

②自己肯定感が高いから「料理」ができるのではなく

「料理」ができるから自己肯定感が高まる。

③自己肯定感が高いから「楽器が演奏」できるのではなく

「楽器が演奏」できるから自己肯定感が高まる。

④自己肯定感が高いから「手先が器用」ではなく

「手先が器用」だから自己肯定感が高まる。

 

と考えてみて、思った。

ところで、自己肯定感っていったい何なの?

wikiで調べてみた。

 

自己肯定感とは、自らの在り方を積極的に評価できる感情のことを言うらしい。

つまりは、自分のことを自分で評価する、ありのままでってことでしょうか。。

でも、これって、すごく難しいことじゃないですか?

自分で自分をありのままで評価できる人っているんだろうか。

 

日本人は、自己肯定感が低い国民だという。

裏を返せば、他国の人は自己肯定感が割と高いということ。

これは、キリスト教的なモノを信仰している国民が多いか否かということと

大いに関係しているんじゃないかと、なんとなく思ってた。

自分で自分を前提なしに評価できるほど、人って強くないと思う。

前提なしに評価してくれる神様が自分の心の中にいるから

自分を肯定できるんじゃないかなあと思うんだよなあ。

 

今の日本社会を見渡してみると、どうだろう。

生まれたその瞬間から、成長が速いの遅いのと評価され

学校に入れば、勉強や運動のみならず、生活態度や風貌まであらゆることが

管理と評価の対象だ。

大人になれば、勤務評価だの人事評価だの、、

そうして、その社会構造に耐えられず脱落した人たちを

自己責任という言葉で切り捨てる。

こんな国で、どうやったら自己肯定感が高まるというのだろう。。

 

そもそも、自己肯定感という言葉の意味を考えたら

自己肯定感の話題に、他者の目が入った「できる」という評価を結びつけること自体が

矛盾をはらんでいることに気が付く。

「自己肯定感が高いほど、運動ができる」というタイトルだけでなく

「運動ができるほど、自己肯定感が高まる」んじゃないかというワタシの

考えたこともおかしいってことだ。

 

あーー、なんか絶望、、と思った瞬間

はっと、思い出した。

日本人の多くは、仏教徒のはずだ(ワタシも)。

そして、開祖であるお釈迦様はこう言われたではないか。

天上天下唯我独尊」。

なんと、これって、自己肯定感マックスってことだよね。

この国にも、きっと救いはあると思えてきた。