いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

姓と名と制度

名前は、姓と名でできている。

家の名である姓と

自分固有の名である名。

 

名前を姓と名で表して

個人をどこそこの誰だと特定する。

〇〇さんちの△△ちゃん、てな感じ。

 

名前は、社会的には、個人を識別するための記号。

誰かと誰かを区別するためには

その人固有の△△ちゃんという名前のほうが重要で

その人固有のモノでない〇〇さんの方は、個人を識別するための

補助的なモノに過ぎないのではないかと思う。

いうならば、同じ名前が二人いた場合のさらなる識別方法みたいな感じ。

 

例えば、「太郎」という名前の人が二人いたとき

太郎の前に「鈴木」や「佐藤」をつけて

鈴木太郎と佐藤太郎と

ふたりの太郎を区別する。

こういう場合、鈴木や佐藤という姓に

家(場所や家柄や血筋)みたいなものは必要ない。

たんなる記号だ。

 

さらには、姓の意味どころか

もはや、姓がなくても個人の識別が可能な時代。

野球の「イチロー」なんて

本名の「鈴木一朗」より本人が特定しやすいし

姓もなく、漢字も使わず

カタカナで音だけを表した「イチロー」で

あのイチローだと多くの人がわかってしまう。

 

近頃は、芸能人と言われる人たちも名前だけの人がたくさんいるし

ネット上では、多くの人が「姓」のないアカウント名で

個人を識別できている。

 

人々が自由に移動でき、職業選択の自由があり

婚姻は当事者の意思でよいという時代になっても

この国では、いまだ、家族であるということを理由に

同姓を強制する。

 

為政者が、名前という記号を利用して

その国の人々を家や一族や家すじに縛り付けて管理する。

戦前と何も変わってやしない。