いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

ちょろくない人生

春、、門出の季節。

卒業式や入学式、子ども達が新たな一歩を踏み出していく。

 

30数年前の春、今やアラフィフのワタシにも、もちろん、そんな季節が訪れていた。

高校を卒業し、大学生となった。

 

入学した大学は、自分の実力よりも偏差値の高い国立大学。

なぜ、そんなアクロバティックなことができたかというと

「推薦」という手法を使ったからだ。

 

今は、国公立大学の推薦入試枠もずいぶん大きくなった印象だけれど

当時は、一般入試枠の定員が今よりも大勢を占めていたし

また、推薦枠は、実業高校や帰国子女などの生徒を主な対象にしていたように思う。

そこに、運よく、普通高校の自分が滑り込めた。

小論文と面接と内申書で。。

 

実力以上の大学に入った自分。。

あのとき、謙虚にならなければいけなかったのだ、きっと。

ただただ運が良かっただけの合格体験が

ワタシの中に芽生えさせたもの、、

それは、「人生ちょろいかも。。」という傲慢。

 

しかし、もちろん、人生は、ちょろくはなかった。

その後、傲慢さゆえの数々の失敗を重ねることになる。

 

すべては人生の一部だし、あれやこれがあって今があると思えば

人生に無駄なことなどないのだろうけど

それでも、もし自分に違う人生があったとするなら

高校3年のあの大学受験がターニングポイントではなかったのかと思う。

 

過去に戻って、人生をやり直せるチャンスがあるのなら

迷わず、高校3年生のあの時に戻って

就職するか、一般入試で大学受験をする。

 

そんなこともあってか

もし自分の子どもが大学受験をするときには

何が何でも一般入試で受験させると決めていた。

 

そして、3年前、長女の大学受験を迎えた。

センター試験から2次試験、合格までの

泣いて、もがいて、必死になって

集中して、緊張して、はらはらして、最後に何とか笑えた

あの凝縮された日々は

推薦合格では決して味わうことのできない、貴重な感覚の連続だった。

 

受験制度にはいろんな問題もあるけれど

学力試験は

人生の豊かさが

結果ではなく過程にあるということを

身をもって感じることのできる

絶好の機会の1つなのではないかと思う。

 

人生は、ちょろくない。。

娘の心に、そう刻まれたと、信じたい。