いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

ぶきっちょさんの調理実習

小学6年の長男のこの週末の宿題は
なんと調理実習だった。
コロナウィルスの影響で
学校では調理実習ができないらしい。
そこで、やむを得ず、家庭でそれぞれやってねという感じ。

昨日の朝、息子のその宿題を横で見守った。
宿題の中身は
「家族の朝食づくり 野菜炒めとスクランブルエッグ」

ぶきっちょ(不器用)を絵に描いたような息子。
ひもを結ぶこと、はさみやカッターナイフの道具をつかうことなど
どれもこれもなかなかうまくいかず、時間がかかる息子。
まぎれもなくこれは、私の血を継いだ証拠だ、息子よ。

ぶきっちょな息子の調理実習ゆえに
野菜を切るのも、いかにもぶきっちょさんの包丁使い。
たまごを割れば、力加減が強すぎて、たまごはぐちゃぐちゃ。
失敗するたびに、かれは不安な表情を浮かべる。
やっと材料の準備ができて、フライパンで炒めはじめても、息子の表情はさえない。
彼の姿の全てが、自分の子どもの頃と重なった。

学校という場所は、あらゆることを比較し、評価する。
器用不器用も例外なく比較、評価の対象としている。
だから、ぶっきちょさんにとって、図工や家庭科の時間は非常につらい時間なのだ。

自分ではどうにもならないことを比較されたり
評価されることほど
人を傷つけることはないと思う。
例えば、肌の色。
例えば、出自。。。

自分ではどうにもならない生まれ持った性質『ぶきっちょ』だって
これらと同類だと思う。
手先の不器用さを誰かに評価されるつらさは、ぶきっちょにしかわからないのだ。

教育とは何なんだろうなあと思う。
学校は、子どもたちの存在を評価するひどい場所になってはいないだろうか。

料理したい、工作したい、裁縫したい。
人としてのごく自然な意欲は
ぶきっちょさんにだってあるのだ。

意欲があればいいじゃないのと思う。
ちょっとくらいへんてこだって、ちょっとくらいミスしたって
構わないんじゃないのと思う。

不器用と評価されたぶきっちょさんは
創作意欲をなくすのだ。
不器用だからしない、できないのではない。
何かをすれば、不器用と評価され
自尊心を傷つけられるからだ。

例えば、ぶきっちょの私は
この年になっても、調理中の手元を見られたくないと思う。
誰かに食べてもらうのはいいが
調理の過程を見られるのはとてもいや。
それは、不器用との判定をくだされることの恐怖があるからだと思う。
これって、学校教育の後遺症かもなと思う。

さて、出来上がった息子の料理は
お世辞抜きで、とってもおいしかった。
自信なさげに作っていた彼も
おいしいよと言うと
途端に顔が明るくなった。

学校という場から評価はなくさなければならないと
つくづく思う朝なのだった。