いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

つながっている 2

前回のつづき

母の感情を、こどもは微妙に感じてしまう。
母が感じていることを、こどもは同じように感じとる。

まだ、ことばがわからないこどもは、母の感情を感じることで
感覚的にこの世界を観る。

しばらくすると、こどもは言葉を習得していく。
母は、言葉を使って、こどもと接する。
すると、こどもは、母の使う言葉で、言語感覚として、この世界を観る。

うーーん、これは、なんだか、母は、粗っぽい新興宗教の教祖さまのようだ。
母は、こどもの感覚と理性に訴え、その世界観を植え付けていく。無自覚にも。
まるで、こどもに、母の作ったメガネを、ムリヤリかけさせるようなもの。
そのメガネは、どんな色のレンズなのか、歪みはどの程度のものなのか。
こどもの透き通ったまなざしに、必要のないメガネを与えてしまう。

母は、もちろん、教祖さまなんかではない。
その自覚もない。けれど、そこが問題なのだ。
母には、その自覚がないが、こどもにとって、母の存在は、とてつもなく
大きい。こどもにとって、「あるところまで」は、母は、一種の教祖さまなのである。

あるところまで、、、、
こどもは、いつか、気づく。
この教祖さま、なんだか、違うかも、、と。
ちょっと、バイアスがかかっていないかい??
ちょっと、矮小すぎないかい??
世界は、もっと、そのままであるべきなのじゃないかい??
いや、そもそも、この教祖さまは、ただの「おばさん」じゃないか!!

知らず知らずのうちに、信仰していた教祖さま。
その教祖さまの作ったメガネに、疑念を抱く。
このメガネは、僕には、私には、合っていない、と。
こんなメガネは外してみよう、と。

それが、反抗期というものであろう。
この世に生を受けて以来、無意識にかけてしまっていたメガネ。
メガネを外して、そこにどんな世界を観るのか。
葛藤の中で、こどもは、悶々と過ごして行く。

思春期特有のあの、イライラ感や、焦燥感、不安感は
まぎれもなく新興宗教から脱退行為だったのだ。
イデオロギーのない、なにものでもない「自己」確立への
第一歩だったのだ!!

メガネは、すぐには、外せない。
こどもは、母を、「教祖さま」でもない、「母」でもない、
ひとりの「ひと」として理解してはじめて
ようやく、メガネをはずせるのだと思う。

私も、娘、息子に、ずいぶん歪んだメガネを与えてしまっているなあ。
だから、こどもが、反抗期を迎え、自分の世界を持つことを、楽しみに待っている。