いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

宮崎 駿

先週、宮崎駿監督の引退会見が行われた。
世界各国から多くの報道陣が詰めかけた。
彼の影響力を改めて知る。

会見をテレビで見た。
宮崎さんの気取らない、にこやかな会見とは裏腹に
緊張感の走る言葉が
いくつもいくつもちりばめられていた。
姿勢を正したのは、私だけではないはずだ。

「自分の意識が捕まえられるところは
たいていろくでもないところ。自分でよくわからないところに
入って行かざるをえない。」
彼のその言葉が、強く印象に残った。
有名な文筆家や作曲家が作品を作るとき
何かが勝手に自分のペンを走らせる
というコメントをよく聞く。

自分が見ている世界は、ちっぽけで歪んでいる。
しかし凡人は、その世界がすべてだ思っている。
一方天才は、この世界が分からないことで
満ち満ちていることを感覚として持ち合わせているのだろうか。

人種、宗教、政治や文化を超えて支持を集める作品は
捉えようにも捉えられず
しかし、いかようにも捉えられる可能性を持つ
終わりのない説明しがたい「何か」がある。
その「何か」は、作り手さえわからない。

この世界が、多くの未知でできあがっていることを
人間は潜在的に知っている。
「何か」が表現されているものに強く魅かれる。
原始的に感じる「何か」。
分からないことを、分からないと自覚することが
様々な出来事を単純化する。
シンプルに生きることができる。

しかし、今の時代、わかることがもてはやされている。
本やテレビのタイトルにもよく出てくる
「わかりやすい◯◯」とか「誰にでもわかる」とか。
純化した物事を、それがすべてだと思い込んだときの
弊害は大きい。
純化が、逆に、様々な複雑化を招く。
「つまり」「要するに」「結局」、、そんなことでくくられてしまうほど
世の中そう単純ではない。
「一を聞いて十を知る」ことが大切だと思う。

「何か」を感じて生きている人が
表舞台から去るのは、とても寂しいけれど
しかしまた、それがすべてでもないのだろう。