いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

美術館

中1の娘は、割と絵が上手に描ける。
学校の美術の先生に、ちょっぴり褒められたそうだ。
彼女の絵のデザインを
先生が持ち歩かれ、他のクラスの授業時の
見本となった時期があったそうだ。

親としては、たいへんうれしいこと。
早速、大学でデザインを専攻していた知り合いに
話してみた。
「娘の美術を伸ばしてあげるためには、どうしたらいいんでしょ?」
すると、その人はこう言った。
「美術館に連れて行ったらいいんですよ。
何も分からなくたっていいんです。
何かしら必ず感じるのですから。」

絵心のない私は、美術館を知らず知らず、敬遠していた。
「絵が描けない = 絵を理解できない」
そうではないんだ。
知り合いの言葉に改めて気づかされる。
ましてや、娘は絵が好きなのだ。
「親が理解できないこと = 子どもに教えられない」
くだらない思い込みであった。
彼女は彼女の人生があり、私とは全く別人格なのである。
彼女の感性は、私の遺伝ではなく、彼女独自のものなのだ。

「対象物を理解すること」
幼い頃から、それを目標として教育される。
だが、この年になって思うのだ。
すべてを理解するなんてどだい無理な話なのだ。
この世は、理解できないことで埋め尽くされている。
理解してほしいと願っても、その表現は限られる。
そして受け手もまた、多様な理解の仕方をする。

表現の最も一般的手段である「言葉」により、人は互いを理解した気になる。
しかし、「行間を読む」という言葉があるように
思いのすべてを言葉で表すことは不可能だ。
言葉には、一定の「意味」があるので
理解したような気になるが、その背景にある浮遊する思いを
どれだけ捉えることができるのか。
そう、表現者を理解することには限界があり
表現のすべては、受け手に委ねられる。
この世界は、自由な表現と自由な解釈で満ちている。
正解を探し当てることが、目的ではないのだ。

「絵」や「音楽」の言葉以外の表現方法は
送り手側の言葉にならない思いが違った形で表現される。
そして、また受け手の解釈も自由でよい。
いや、解釈などしなくていい。
何かを、言葉にならなくてもよい何かを
感じることにこそ、「絵」の存在の意味があるのだろう。

そして、娘とともに美術館に足を運んだ。
正解のない「感性」で、彼女は何を感じたろうか。