いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

不都合な読書

本屋さんや図書館に行くと
自然と足は、好きな作者の棚の前へと向かう。

たまには、他の人の本も読んでみようと
ぶらぶらと歩き、見回したあと
本を手に取る。
読み進めるうちに、その本もまた何だか
自分の感性に近いようで、その本もまた好きになる。
偶然手に取ったはずの本が
どうして、ぴたりと好きになったんだろう。
たぶんこれは、偶然ではない。
私の奥底に深く眠る記憶が
その本を手に取らせたのだ。
広告なのか、人から聞いたのか
それまで読んだ本の中で紹介してあったのか
既に忘れてしまっているのことが
その本を前に無意識に記憶が蘇るんじゃないかと思う。
偶然でなく、必然。
だから、自分の感性に近い気がするだけなのだ。

最近の私の読書は、自分に都合のいい読書になっている。
自分に心地のよいものを
自分の考えを肯定してくれるようなものを
無意識に選んでいることに気がついた。
既成の枠からはみ出すことを恐れ
いや、枠を強固に固めているような気がしている。

年を重ねるにつれて、頭は、だんだん凝り固まる。
うーん、これじゃ、いかん。
たまには、私の頭の中に
違う流れを作ろうじゃないの!
そう思って、手に取ったのは、斎藤孝先生の本だった。
私は、テレビの中の斎藤先生が好きではない。
だって、直球でばしばし言われる厳しい言葉が
まるで自分を否定しているような気がするから。
あんな優しそうなお顔についた口から
豪速球が飛び出してくる。
それが正直、苦手だった。

そうだ、この苦手な斎藤先生の本を読んでみよう。
図書館のサイトから何となく予約した本。
「「頭がいい」とは、文脈力である。」

びしばし、びしばしと
わたしにとって不都合な言葉が目に入る。
うーー、目が痛い。
もう、読みたくない。
そう、思いながら、不都合な読書は続いた。

不都合な読書だけに、もちろん軽快に読むことは
できなかったけれど
違う文体に触れ、違う価値観に触れながら
頭の中にしばしの間、違う流れが起こった。
眠っていた神経回路が刺激されて行くのが分かる。

そして、読後。
自分で選んだ本にも関わらず
斎藤先生の本から解放された喜びで満たされた。
ムリヤリ起こされた神経回路は、ぐったりと疲れていた。

疲れを癒すべく、私はそっと、内田樹先生の本を開き
再び、都合のいい読書へと向かったのであります。