いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

自己流

昨日、小保方さんの記者会見があった。
STAP細胞の有無はもちろん
本人に対する疑念をどう説明するのかなあと
テレビを見つめた。

科学研究の最先端にいる人の言葉がこれ?
正直、ビックリした。
あれじゃあ、まるで
「私は、UFOを見た!」
「私は、ネッシーを見た!」
「私は、お化けを見た!」
「だから、信じて。」
「どうして、信じてくれないの?」
とダダをこねている子どもと何ら変わらない。

先立っての理研の記者会見は
一方的に彼女のことを未熟な研究者扱いをしていて
ちょっとそれはあんまりじゃないのと思ったが
昨日の記者会見が、そのことを証明したような
気がして、あまりの皮肉に
少しばかり気の毒な気がした。

世間を騒がせる大きなニュースというのは
今の課題はこれですよと示してくれる具体例のようなものだ。
世の中というのは、まことしやかによくできている。
具体例そのものが、今の社会の縮図なのだ。
場所を変え、人を変え、時を変え
似たようなことが起こっている。
ニュースは、一側面ではない、社会まるごと。
点でも、線でも、面でもなく、
質感を持った完全なる立体なのである。

初めは、その課題を誰もが気づく訳ではない。
しかし、世の中をゆらゆらと漂う捉え難い何かを
多くの人が感じ始めたとき
待ってましたとばかりに、それは、一気に表出し、具現化する。
感じていたことが、ニュースによって、既視化され、具体化され、抽象化され
一般化され、概念となる。

彼女は、「自己流」という手段で、研究者としての禁を犯してしまった。
正当性の証明だけを目的とした場合、共通認識や共通理解を無視し
「自己流」に走るのが最も手っ取り早い。
それが、いかに短絡的で、愚弄であるかの認識は
優秀な彼女の頭脳には、なかったのか。
「自己流」「オリジナル」「個性」
この呪縛はあまりにも大きかったのか。

そしてまた、、私たち大人もこれらの呪縛にとらわれながら
かつ、大人のずる賢さで多くの義務を放棄してきたのではなかろうか。

子どもを大人にすること
若い人を育てること
社会のシステムを教えること
受け継いできた「知恵」を
後世に伝えていくこと
これらの大人が果たすべき
暗黙の義務を
世代間ギャップの煩わしさに負け
個性尊重という大義名分のもとに
放棄してしまったのではなかろうか。
そして、大人だけが助かるために
組織の中から子どもを追い出そうとしている。
子どもを育てることをしてこなかった
自分たちの罪は、棚上げにして。

そしてまた、子どもも自分が子どもであるということを
認識すべきである。
机上の理論では、大人にはなれないのだ。
机の上では、生きていけない。
生きるということは、経験であるし
経験から学んだ知識は、本物であり
そこに思考が加味され、知恵となる。

今の個性尊重の学校教育は
この世に大人だと思い込んだ自己流の子どもを
大量に生産するシステムと化している。
そして一方、超高齢化社会は、現役の老人を
社会に多数はびこらせることとなる。
社会の急速な変化は、世代間ギャップを
これまで以上に感じさせることとなるだろう。

世代を超えて理解をしていくこと
大人と子どもが共存し、子どもが成長し、それを支える関係を
どのように築いていくか、その大きな課題を突き付けられているのだと思う。

個性とか、自己流ということをしっかりと見つめなければ
また、30代の子どもを世に送り出し、
世間のつるし上げにする例が
後を絶たないのではないだろうか。