いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

41回目の結婚記念日

今日5月20日は、両親の41回目の結婚記念日だ。

おととい、父の入院する病院へ。

言葉を失った父。
その父に話しかける母。

そんなふたりの姿を、私はそばでそっと見ていただけだった。
そこに、私のはいりこむ余地がないような気がしたのだ。

私はこのふたりと血がつながっている。
父と母は、もちろん血のつながりはない。
この世の物質的なつながりでいうと、私と父母とのつながりは
父と母のそれより絶対的なもののはずだ。

けれど、そのとき感じたのは、
血のつながりとか、
物質的なものとか、
この世で言う絶対的なものが、
なんて不確かなものなのか、、と。

うまく言葉に表せないけれど、感覚的に、
父と母のそのふたりの姿が、
父であるとか、母であるとか
夫であるとか、妻であるとか、
男であるとか、女であるとか、
そんなこの世の役割を超えた
なんというか、ただそこにあったのは、
ふたつの魂のつながりのような気がしたのだ。

形のないそのつながりに
私は踏み込むことができず、
その場に立ちすくんでしまった。

結婚ってなんだろう。
夫婦ってなんだろう。

ふたりは、この世で時を共にする。
いろんなことに出会う、いろんな人に出会う。
そうしながら、歩調の違いはあれど、
お互いそれぞれが、それぞれの心を育てていく。

ふたりで、形のない大切なものを一生懸命に探そうとする。
それは探しても見つからないと気づく。
大切なものは、育てていかなければならないのだと気づく。
大切なものは、ふたりで育てるのだと気づく。

お互いの心と、ふたり共有の心を少しずつ少しずつ
大事に大事に育て、ふたりはつながっていく。

形のないそれは、目に見えないだけに、
時にはそれを形あるものにしようとするかもしれない。
例えば、その象徴として家を建てたり、車を買ったり
子どもをいい学校にいれようとしたり、、

だけどふとまた気づく。
目に見えない、形のないものの大切さに。

そして、この世の「私」の幕が下りるとき
一緒に生きてきた、この世の「私」と「夫」の魂が
どうか寄り添い、つながっていますように。