いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

ふたつのハードル

生きていく。。。

ひとは、生きていく中で、数々のハードルにであう。

それは、病気だったり、事故だったり、災害だったり、、
「生きる」という本能が崩れる精神的危機だったり。

そんなハードルをクリアしながら、生きていく。

けれど、たとえ、いろんなハードルを越えたとしても
最後は、「老い」という絶対に越えることができないハードルを前にして
寿命が尽きる。

わたしの「生きていく。。」というイメージは、こんな感じだった。
それは、「生きるためのハードル」
ハードルは、「生きる」ためだけにあるものだと思っていた。

けれど、最近、ふと、「死ぬためのハードル」が、あるんじゃないかと思い始めた。

死ぬことができない、そのハードル。
ひとつは、「生存」を目的とした医療の進歩。
そして、ふたつめは、本人の肉体的な寿命を受け入れることができない、
いや、受け入れる用意はあったとしても、
医療が介入すれば、生存できる、
そのことにより寿命を受け入れることに対する罪悪感をもってしまう、まわりの人たち。

「死ぬためのハードル」

これは、人間が進化してきたからこその、ハードルなんだろうか?
それとも、昔から変わらぬ、人間の「死」に対する恐怖によるものなんだろうか?

「生きるためのハードル」と「死ぬためのハードル」

私の父は、今年、2月、「生きるためのハードル」を越えたのだろうか、
それとも、「死ぬためのハードル」を越えられなかったのだろうか。

答えの出ない問いを、悶々と、胸の内に問う。

ね、お父さん、こんなこと考える娘って、薄情なのかなあ。。