いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

食育格差

先月、ある家族と食事を共にする機会があった

両親と、小学生の女の子、幼稚園の女の子の4人家族

そこのお母さんは、悩んでいた。
「子どもがごはんを食べないんです

なるほど、ふたりとも、かなりほっそりしていて、同じ年齢のこどもと比べると
ずいぶん小さい感じがする
なるほど、そして、確かに、ごはんの量がものすごく少ない。
なにしろ、2才の我が息子の食事量より少ない

えっ、ええーー、これってあんまりじゃないのお
よく、これだけのエネルギー補給で、間に合うものだなあ、と
なかば、逆に感心していると、

その子どもたち、食事の後、ジュースを飲む、お菓子を食べる
その量のちょっと、まあ、異常なこと

あれじゃあ、ごはんを食べれなくても当然だわ
「しろいごはんは、味がしない」と
塩をかけるようになるのも、当然だわ

こんなこと、悩まなくても、ちょっと考えたらすぐにわかるじゃないの
すべては親の責任よ

でも、親しくない人に、そんなこと簡単に言えるわけがない。
お母さんが、本気で考えるのを待つしかないのだろうなあ

「食育」だなんて、行政主導で簡単に言っているけれど
それは、そんなに簡単な問題ではなさそう
飽食の世の中、大量の食の情報の世の中、大人の食文化中心の世の中で
今、たった今、からだが作られていく、子どもたち。
その子どものからだを作っていくための「食」がどういうもので
なければならないか。
子どもに「食育」の前に、親の「食育」が必要ではないのかなあ。

子どもの好きな物ばかり与え、「ごはんを食べない」と
悩みでもないものを悩んでいる人がいる一方で、
マクロビ食などに熱心に取り組む親がいる。

教育格差より、食育格差の方がよほど深刻な気がする。
なぜなら、教育する前に、まず、「からだ」「あたま」ありきなのだから。

「食育」とは言いながら、今の学校給食は、嫌いな物、苦手な物を
無理に食べさせないらしい。給食の残飯はものすごい量になるらしい。
かたや一方で、「いのちを大切に」などと、矛盾したことをやってるのだから
あーあー、行政に任せられもしない。

でも、そんなこと当たり前だった。
食の大切さなんて、お役所が教えよう、お役所に教えてもらおうなど
それこそ、親の責任放棄だ。
勉強できなくても、運動が苦手でも、子どものからだをつくる
それこそが、親の一番の責任ではないだろうか。

かく言う私も、ずいぶんと食をおろそかにしてきた
この大切なことに、やっと気づいたのも、実は最近のこと。
息子が生まれてから、毎日毎日、おっぱいを与え
ごはんを作り、食べさせ、後片付けをし。。。
そんな単純な繰り返しの毎日に、私はいったい、何をしているんだろう
と、ちょっと落ち込み気味になったころ。

ある日ふと、隣で、ずんずんと大きくなっていく息子を目にして。。

食べさせて、太らせて、からだをつくり、巣立ちをさせる、
動物としての、この基本的能力が、自分にあるんだと
なんだか、その大切な任務を遂行しているという実感に
涙があふれそうになったことがある
私はなんて大切なことを見失っていたんだろうと。