いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

誕生日

昨日9月18日は、息子の6才の誕生日だった。
息子の大好きなお刺身とチョコケーキで
ささやかにお祝いをした。

プレゼントには、彼が前々からほしがっていた
キックボードを準備した。
それを渡された途端、彼の喜びはピークに。
しかし、「ありがとう」と言いながら
ローソクの火を吹き消す
息子の表情は、満面の笑みではなく
恥ずかしげで遠慮がちに見えた。
普段は、叱られ、怒られ、まるでテレビのADのような身であるのに
一夜にして、舞台の主役である。
戸惑うのも無理はないか。。

でもね、ほんとうに、主役なんだよ。
この日だけは、おめでとうの日なんだよ。
生まれてきて、この舞台に立てて、おめでとう。

家族で誕生日を祝うことが
イベント化していない家庭で育った。
父も母も、記念日に頓着しない人だった。
誕生日は、ただケーキを黙々と食べるだけ。

こどもの頃、一度、ハッピーバースデーの歌を歌おうよと
みんなに持ちかけた。
ピアニカで伴奏を始めた途端
家族全員の気恥ずかしそうな
しらけたような
そんなことしなくても、、という雰囲気に身をおいて以来
「おめでとう」や「ありがとう」に包まれた
誕生日をあきらめた。

結婚した相手は、大の記念日好きだった。
夫は、1枚ものの年間カレンダーを買うと
すぐに、記念日を記入するような人。
もちろん、家族の誕生日は、彼にとって
一大イベントなのである。
彼とともに、家族の誕生日を祝うたびに
こどものころの誕生日のトラウマは
少しずつ消えていったように思う。

「おめでとう」と「ありがとう」のやりとりを
演出的に繰り返すうちに
逆に、気恥ずかしさは消え
心から、「おめでとう」と思えるようになった。
そして、そのおめでとうの意味が
少しずつ、変化してきたように思う。

生まれてきてくれてありがとう。
親と子の小さな関係の成立を喜ぶ。
だけど、本当は、そんな小さなことではないんじゃないかなと、思う。
アナタが生まれてきたその日。
世界とつながったその日。
この世界に祝福され今ココにある原点に帰る日。

今、こうして、親子の縁でココにいる。
だから、私たちは、世界を代表して
アナタの誕生日を祝福するのだ。
生まれてきたことに「おめでとう」

そして、アナタは言うのだ。
プレゼントをもらったからでなく
ケーキを食べられるからでなく
この世のすべてが、自分の命を
祝福し受け入れてくれたことに
「ありがとう」と。

だから、自分を尊び、大切にしてほしい。
誕生日は、それを確認する日のような気がしている。