いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

受け取るちから

先日、放送が終わった、NHKドラマ「逃げる女」。
すごく見応えのあるドラマだった。

映画のような映像、
不安定な中で進んで行く物語。
回を重ねるごとに次回を心待ちにするようになった。

テレビドラマにありがちな
テーマ感を無理矢理伝えるような
めんどくさいセリフ。
懇切丁寧な解説に
場面の印象を統一させるためのBGM。
はい、これが喜怒哀楽です!!みたいな
サンプルのような表情。などなど。
ところが、このドラマには、それがなかったのだ。

頭じゃなくて、脊髄から絞り出したような
言葉少なで、荒々しいセリフの数々に
ただひとり、その人しか
出せない豊かな表情と身体表現。
ベールに包まれた物語の受け取り方は
映像、セリフ、表情を見る視聴者側に
すべてが委ねられている、そんな気がした。

ずいぶん前から、テレビでは
テロップが流れるようになった。
ニュースにしても、バラエティ番組にしても。

はじまりは、作り手の親切心だったのかもしれない。
だけど、ふつうに聞き取れるものが
活字にして画面に流れると
自然にテロップに目が奪われ
今、そこで話している人を見ず
その人の表情や、息づかい、微妙な間を
感じることができなくなる。

おまけに最近では、そのテロップに
話している人の言外の言葉までも
ご親切にカッコ書きにしていることもある。
それを見ると、ときどき
テレビを作る側とテレビを見る側の
温度差をはっきりと感じる。
そこまでしなくても、大丈夫。
ちゃんと受け取れるんだから。
そして、もっと自由に受け取らせてよ
と思うのである。

だから、このドラマを見おわったとき
私は小さな感激を覚えた。
このドラマの作り手は
テレビの向こうの視聴者の
受け取るちからを
きっと信じていたのだなあと。