いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

こどもとの時間

私には、高1の娘と小2の息子がいる。

娘が小さい頃、週末は必ず出かけたし
長期の休みには、旅行にも行った。
買物に出かけることも多かったし
外でごはんを食べることも多かった。

対して息子は、違う。
週末に出かけることも少なく
長期の休みに旅行に行くとしても
近場で1泊2日くらい。
洋服や靴も必要最低限の数で取り揃え
今はもう、外食することもめっきり減った。

私は、娘が小学校を卒業するまで働いていた。
娘は小さい頃から、平日には、保育園や学童保育
長い時間を過ごしてきた。
だから、週末には、出かけて娘を喜ばせようと思ったし
いい母親として接したかったのだ。
限られた時間を満喫しようと
よそ行き顔で娘に接してきた。
私が幼い娘と過ごしてきた日常は、非日常だったのかもしれない。
よそ行き顔の母と娘。

息子が生まれた頃には、育児にともなう制度改正などもあり
育児休暇を3年とり、復帰後1年は短時間勤務で働いた。
息子と接する時間は、娘とは比較にならないほど多くなったが
一方で収入は減り、必然的に、お金を使う機会を避けた。
お出かけや外食、買物もぐーんと減った。
ただただ息子と日常を共有してきた。
長い時間、いい母親を演じられるわけもなく
息子と一緒にいた私は、端から見ると
ちっともいい母親ではなかっただろうと思う。
だけど、気負いがない分、娘の時と比べて
とても気楽だった。

習性とは怖いもので、未だに娘の前では
いい母親であろうと演じている自分がいる。
そして、娘もよそ行き顔をみせることがある。
彼女の本心を知りたいと思うことがたびたびある。

「こどもと接する時、大切なのは
時間の長さでなく、時間の濃さ」などと
子育て論の展開に、今は疑問を感じる。

家族や親子になるというのは
時間の濃さではなく、時間の長さではなかろうかと思う。
少なくとも私にとっては。