いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

目的と手段

「勉強は、どうしてしなければならないの?」
「勉強は、何のためにするの?」
「勉強して、何になるの?」

どんなに勉強好きな子どもだって
ときどきこう思うだろう。
勉強嫌いな子どもならなおさら。。

なぜ、勉強しなければならないのか
その問いに大人が答えるとき
勉強はたいてい手段化されてしまう。

勉強すれば、、
いい学校にいける。
いい就職ができる。
お金が稼げる。
学歴があればなんとかなる。。。
だから、勉強しなさい
という具合に。

勉強って手段なんだろうか?
勉強って目的なのだろうか?
勉強を手段とすることが、目的なのだろうか?
勉強を目的とすることが、手段なのだろうか?
時々頭がこんがらがる。

勉強したくても、経済的事情で勉強できなかった人たちが
多数を占めた時代、勉強は純粋に目的だったのではないか。
「勉強がしたい」
まずは、そこが目的である勉強の出発点。

誰しもが勉強できる環境に育ち
高校進学は当たり前、
大学進学もちっとも珍しくなった今の時代になってから
勉強することに目的の意味が薄れ
その価値を語るために「手段」を用いるようになったのではないか。

勉強することの意味を手段によって語り
勉強すればいいことがあると
人参をぶら下げたことで
子どもたちが喜んで勉強するようになった!
なんてことはなく
なぜ勉強しなければならないのかという
思いだけ増幅させてしまったのではないか。

「勉強は手段だ」という考えを
闊歩させてしまったこの時代の罪を思うのだ。

勉強をまた目的化させるには、どうすればいいのか。
ぐずぐず文句を言いながら宿題をしている
長男の横で、結構必死に考えている。