いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

世界史の大切さ

高校時代、社会は、日本史を選択した。
なので、私の世界史の知識は中学社会どまりである。

30年前、センター試験が始まったばかりの頃は
社会は一科目の受験でよかった。
ゆえに、地方の公立進学校のカリキュラムは
おおむねセンター試験の受験科目と連動していたはずである。

私が通った高校も、そういう体制をとっており
2年次からは、日本史、世界史、地理のいずれか一つ
履修すればよかったのである。

先日、世界史の学習まんが全集を購入した。
小学生の長男のためにと買ったのだが
息子はなかなか手を伸ばさない。

ここは、親の出番である。
私が面白そうに読めば
息子もどれどれと手に取るかもしれない。

ところが、そんな演技はいらなかった。
面白そうに読むではなく
本当に面白かったからだ。

あっという間に全20巻を読み終える。

齢47。
これほど後悔したことがあっただろうか。
世界史を知らず、生きてきたことに。

日本史を選択した私は
日本からしか世界を見たことがなかった。
つまり、私の視点は、日本人としてのものであった。

世界の歴史の中に身をおくと
世界における日本の立ち位置というものが
どれほどのものなのか、、
まさしく、井の中の蛙であったというわけである。

今、世界でおこるさまざまな出来事を
世界史を知らずして理解することなどありえない。

ありえないことを分かったつもりでいた
自分にほとほと笑えてきた。

高校時代、あのとき、日本史ではなく、世界史を
履修していたなら、私の人生、、とまではいかずとも
私の考え、私の視点、私の立ち位置というものは
ずいぶん違っていたものになっていただろう。

本来学ぶべきものを
受験制度に左右され
学ぶ機会を奪われることに対して
社会全体の意識があまりにも乏しい。

「試験に合格さえすればいい」
そう言う考えなら、予備校でよいのだ。
公教育なんて不要なのだ。

公教育が最優先すべきは、教養である。

世界史は、人間である限り
学ぶべきものであり、学ばせなければならないものである。

文科省に、教育委員会に、公立高校に
本当の意味での教育の理念がないことに
卒業後30年を経て
改めて気づかされることになるとは思いもしなかった。

長女が、世界史を学んでよかったなあ。
息子にも世界史を学ばせなければ。

文科省や、教育委員会
教育を任せられない現実を
しっかりと受け止めている。