いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

海のものと山のもの

転勤に伴い、この地に引っ越してきて、はや12年。
その間に長男が生まれ、家族4人となり家も建てた。
というのに、いまだこの土地に慣れない。
アウェー感が消えない。
どうしてもこの土地の水が合わない。

この土地に慣れようとする行動をとると
浮いている自分がいるのが分かる。

なんなのかとずっとつらつら考えてきて
あっ、こういうことかと思った時
自分で考えついたことでありながら、びっくりするほど腑に落ちた。
私のせいでもなく、この土地の人のせいでもない。
「合わない」のが当たり前、じたばたしても決して意味がないことに気がついた。

私は漁師の娘。
漁師町でずっと育ち、漁師の遺伝子がめちゃくちゃ濃い。
せっかちで、短気で、前言撤回は日常茶飯事である。
とにかく、じっと待つことが苦手。
漁師は、今、このときが勝負という生き方をしなければ命を失う環境だ。
もちろん自分にもそれが遺伝している。
つまり、基本短期決戦型の生き方である。

対して、今住んでいるところは、農業の町。
良く言えばのんびり、悪く言えば鈍重感が漂っている。
農業は、自分の行動がすぐ結果に結びつかない。
漁師の日常と農家の日常はまるで違う。

地の人には、長いスパンで生きる農業の人たちの遺伝子がつまっているのか
あまり、一喜一憂しない感じがする。
悪く言えば、愛想に乏しく、反応が鈍い。
漁師とは時間感覚もずいぶん違い
ときに一分一秒を争う漁師の仕事に比べ
数ヶ月数年単位で生きる農家の仕事の性質なのか
この土地の人は、異様に時間にルーズ。
つまり、この町は人生の多くの時間を待つことに費やす人たちの集合体なのである。

あ〜、私は、この町の人と時間感覚が違うだけなのだ。
時間の流れが違う世界を生きているだけなのだと気がついたとき
のどにずっとつかえていたものがとれたように思えた。

海のものと山のもの。

同じ地に住みながら、違う時間感覚で生きている。
合わないのなんて、当たり前だった。