いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

「そうですね」の功罪

朝ラジオ生活を始めてから、ラジオから聴こえることばが
とってもおもしろく感じられるようになった

テレビだと「ことば」とともに「映像」があるので
視覚と聴覚のふたつが刺激されるからか、空気を感じる
ということが少ない気がする

ラジオは、聴覚のみの刺激だから、自然と話し言葉
引き込まれて、ラジオ局の空気とか
パーソナリティの心の中とか、目に見えないデリケートな
部分がずんずんと伝わってくる感じだ

朝7時半から、私の住むFMの地方局のラジオ番組を聴いている
この4月から、パーソナリティがかわり、おそらく新人さんかなあ
元気いっぱいの若い女性と、新人の域をすっかり脱し、カラーが出てきた
男性とのふたりで番組を進めている。

このパーソナリティの若い女
元気いっぱい、はつらつと、一生懸命仕事に取り組んでます
というのが、びしびし伝わるんだけど、、、
なんか、しっくりこない

どうしてかなあ、、と考えながら、ラジオを聴いていた。
すると、どうもこの女性の「そうですね」が何とも不快なのです

「そうですね
相手の意見や考えに同調していう言葉のはず。
だから、イヤな言葉ではないはずなのに。
いったいこの不快感は何なの???

「そうですね」「そうですね」が、やけに耳につく。
それだけ、濫用してるってこと。
そして、「そうですね」と言った後に、すぐさま、自分のことをぺらぺらと話しだす。

わかった
この人の「そうですね」には、気持ちがちっともこもっていないのだ。
「そうですね」は、自分が話しだすための、「ひと呼吸」
同調したように見せかけて、実は、自分が話すことで頭の中はいっぱい。
その「そうですね」は、相手の気持ちをちっとも理解していない
見せかけの「そうですね」なんだ

不快感の正体は、それだったのねえ

しかし、ここで、はたと気がついた。
この「そうですね」の濫用は、なにより私自身がよくしているではないか
自分の会話をちょっと注意していたら、なんと「そうですね」と言っていることか。
そして、「そうですね」が自分が話しだすための「ひと呼吸」になっていることを。

ついつい、なにげに使う「そうですね」に、
思わぬ罠がひそんでいたなんて
心のこもった「そうですね」なら、それはよい「ことば」。
その「よいことば」を使っているつもりで、実は、本人も知らず知らずのうちに
それが、相手への同調と見せかけた、ひとりよがりの「そうですね」になっていることを

あーー、気をつけなきゃいけないなあ