いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

本物の先生

今日はあることばかり考えて過ごした。
「なぜ、先生といわれる人との会話はむなしいのか」

私は、先生という人種と話すと、とてもむなしくなって
はあーーっとため息をつきたくなる。
学生時代から学校の先生は苦手だったし
親になってから子どもの担任の先生と話すのも苦手だ。
病院嫌いは、病院の先生が苦手というのが大きいし
一度、ある政党の集会に言って質問した時の
政治家の先生も全く同じ感じで苦手だった。

どうして先生という人と話すとむなしくなるのだろう。
朝からずっと考えてて
今ようやく結論らしきものが見えてきたので
忘れないうちにと思って、ブログに書いている。
結構当たってるんじゃないかと自分で思ってるが
しばらくすればこの結論も変わるかもしれない。
だって、私は先生になりたくないから。(ここが肝!)

先生という人と話してむなしくなるのは
彼らが答えを持っているからである。
だから、会話が成立しない。
こちらが何を言っても、どう反応しても
彼らは、自分が持つ答えを繰り返すのみだからである。

会話というのは、自分の発する言葉に相手が揺らぎ
相手の発する言葉に自分が揺らぐ運動ではないだろうか。
どこが着地点なのか、いや着地することすら意識せず
互いにゆらゆらさまよいながら、あっちかな、こっちかなと
行ったり来たりする。
それがうまく行くと、たとえ何らかの結論が出なくとも
尻切れとんぼの会話だったとしても
おしゃべりした後に楽しい気持ちになる。
自分の中に新たな感情や考えが芽生え、相手の見方が変わり
世界の見方が変わる。
これって人が成長してるってことではないか。

ところが、会話の一方が答えを持っていれば
その運動が止まってしまう。
揺らぐというのは、一人ではできない。
一人が硬直していれば、もう一人もまた硬直し
距離が縮まることも離れることも交差することもない。

先生という職業や地位につく人の多くはあらかじめ
自分の答えを持っている。それは一種の職業病かもしれない。
彼らは相手が話している時、すでに自分の答えを言う準備をしている。
その答えに相手が反応すれば、次の答えを
またその答えに相手が反応すれば、次の答え。
つまり、彼らは相手の反応に自分自身が揺らがないよう
答えを準備しているに過ぎないのではないか。
用意された言葉が駆使される会話ほどつまらないものはない。

自分も揺らがない、相手も揺らがない。
だから、先生との会話はむなしいのだ。

そう言えば、先日のれいわ新選組の新宿街宣で太郎さんがこんなこと言ってた。
「先生って、先に生まれただけだろ!」って。

先に生まれただけと言われれば
子どもにとっての大人はすべて先生ということになる。

先生は答えを持っているとすれば
子どもが大人としゃべっても、むなしい気持ちになるなんて当たり前。
逆に言えば、答えをもたない子どもたちと会話するほど
楽しいことはないということだ。

結局、いわゆる先生とよばれる多くの人たちは、自分自身が硬直しているため
人に揺らぎをもたらすことができない。
人が成長するとは、精神が揺らぎ運動することであろう。
あれれ。だとすれば、この人たちは、先生ではないではないか。

先に生まれただけの偽物の先生ではない本物の先生が、人を揺らがせ精神運動を活発にし人を成長させる人だとしたら
本物の先生は、柔らかく、しなやかな、子どもだということになる。

先に生まれただけの先生にはなりたくないな。
(先生じゃないけど)
とりあえず、これが今日の私の結論。