いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

20年目の別れ

結婚以来、20年購読してきた朝日新聞をやめることにした。
明日4月1日から、我が家の新聞は、毎日新聞になる。

朝日をやめるのには、いろいろ理由があるけれど
一番大きな理由は、やはり昨年ツイッターを始めたことだと思う。

私は、この20年、この世の中を
朝日新聞というフィルターを通して見ることに
何の疑問も感じていなかった。
いや、フィルターがかかっていることさえ
意識したこともなかった。

メディアを通して情報に接する時点で
その情報は、良くも悪くも恣意性がある。
というのに、その恣意を感じることもなく
そのうえ、事実をきちんと見ていると思い込み
かつ、その恣意的な情報によって
自分の思考、行動が形作られ
それを自分自身が能動的行動だと思っていることに
ぞっとしたのである。

新聞は幾つも読んだ方がよいのだろうが
金銭的にも時間的にもそれはつらい。
ネット情報だけでは、心もとない。
そして、やっぱり、毎朝、新聞という紙媒体に接する
生活習慣を捨てることができない。
というわけで、毎日新聞にかえることにしたというわけだ。

毎日新聞は、明日からの契約なのだが
親切な販売店さんが、昨日からお試しで
配達してくれているので、昨日今日と
朝日と毎日を読み比べてみた。

あっ、文章が微妙に違う。。。
似たようなことをいってるようだけど
記事の書き方が微妙にちがう。

朝日の記者の文章と
毎日の記者の文章と
それぞれに特徴がある。

ずっと朝日を読んできただけに
今まで気付かなかったことに気付かされる。
回りくどさ、識者や関係者の意見を多用することで
記者の責任を回避しようとする雰囲気のある文章。
確かに伝えようとするあまりのバカ丁寧さによって
かえって記事の焦点をぼやかしていること、などなど。

そして、ハッとした。
私の口ぶり、かなり朝日に影響されてはいないか!?

一方、毎日は、シンプル。
逆に言えば、ちょっと素っ気ない印象だが
記者が何を言いたいか、何を伝えたいかが
朝日より分かる。

言葉が多ければ多いほど、相手に正確に伝わるとは限らない。
いや、逆に言葉を多くすることで、焦点をずらし、核心をはずすが
伝えてるという外形だけはしっかり伝えることができるのかもしれない。

明日から、毎日新聞を読む私。
自分の思考や行動にどんな変化があるかちょっと楽しみだ。
そして、きっと、このブログの文章も微妙に変わっていくことだろう。