いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

意思の弱さ

コロナウィルスのニュースから目が離せなくなって
自分の日常にツイッターがどっしり居を構えるようになり
身動きが取れなくなった。

で、ツイッターをしばらくやめてみた。

すると、目の前に多くの時間があることに
今さらながら気がついた。

ツイッターで情報を得ることで
自分の感情や感覚に刺激を与えるインプットを求めていた。
得た情報で自分の考えや意見をtweetするアウトプットの機会を求めていた。

インプットとアウトプットを繰り返し
はて、自分は何をしているんだろうと思った。
自分が単なる情報の通り道、媒体となっている。
ツイッターを利用しているつもりで
ツイッターシステムに飲み込まれただけだった。
主体的にやっているつもりでも
システムは、こうして、人をシステムに取り込み、のみこみ
巨大化して、システムを強固にしていく。
おお、こわっ。

人間は、自分が望むことをすることができる。
人間は、自分が望まないことをしなければならないことがある。
後者の場合、自分が望まないにもかかわらず、何らかの強制によって自分がそうせざるを得ない状態になるので
自分以外の何かに自分がコントロールされていることを常に意識できるという意味で
たとえ物理的支配から逃れられなくても精神的支配から逃れられる。
ところが、前者の場合は、自らの意思で行動していることから
自分が何ものからの支配を受けていないという思い込みにより
客観的なものの見方ができなくなる。
自分がいつのまにかシステムに取り込まれていているが
取り込まれていることにさえ気付かないことが多い。

自らの意思で始めることほど、危ういことはないのだなと思う。
その危うさとは、自分自身がシステムに取り込まれ
自分の時間を肉体を精神をシステムにコントロールされてしまう危険性である。

私たちは、常に自分がシステムに飲み込まれていないかを確認しなければいけない。
そして、常にシステムは人を飲み込みながら巨大化していくものであるということを頭に入れておかなければならない。
巨大化したシステムの中で、人間はいとも簡単にシステムの一部と化すのだということを頭に入れておかねばならない。
そして、自分を飲み込もうとするシステムから、できる限り、できる限り、逃げて
一人の人間として生きるのだという覚悟がいる時代なのだなと思う。