いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

さようなら、お父さん

今朝早く、洗面所の窓を開けると
2、3才くらいだろうか、
かわいらしいコドモの声が聞こえてきた。

「さようなら、さようなら」
「朝」と「さようなら」とが頭の中で結びつかず
なんだか妙な感じだなあと思っていたら
そのあと、言葉はこう続いた。
「さようなら、お父さん。」

まあまあ、
「いってらっしゃい、お父さん」
ということなのだろうね、きっと。
コドモの言い間違いに思わず微笑んだが
いや、待てよ。なんかヘンだ。
この気持ち悪い感じは何だろう。

そうだ、「さようなら」と「お父さん」という言葉が
同時に使われたからだ。
今まで、考えもしなかったほど当たり前のこと。
さようならは、一緒に住む家族には言わない。
さようならは、一時的に時と空間を共にした人に対する
お別れのあいさつだ。
家族は、それとは逆である。
一時的に離れることはあっても
また、時と空間を共にすることを前提として
成り立っている。
だから、家族に「さようなら」とは言わない。
「行ってらっしゃい」と言う。
夫に、子どもに「行ってらっしゃい」と言う。
それは「帰ってらっしゃい」という意味を言外に含むのだ。
「家族」という、不確かな集団を
顕在化させているものとは
家族と他人にかける言葉の違いであり
それが「行ってらっしゃい」と「さようなら」に
凝縮されているように思えた。

コドモの口から発せられたかわいい言葉から
何だかいろんなことを考えさせられた朝であった。