いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

褒め言葉

昨日のこと。
息子のお友達のお母さんが、とってもかわいいブーツをはいていた。
「そのブーツ、かわいいですね!」
と声をかけたら、
お返しにこんな言葉が返ってきた。

「いえーー、◯◯さん(私のこと)こそ、いつも
かわいいのを身につけてますよね!」

社交辞令とはいえ、私の心は、天にも昇る心地よさ。
今にも舞い上がってしまいそうになる自分を
「落ち着け、落ち着け」と必死になだめた。

はっきり言おう。
私は、全然おしゃれじゃない。
ファッションに費やす時間は、私の日常の中でほんの少しだ。
年に数回行く美容院で見る雑誌で
ほぼすべてのファッション情報を手に入れている。
おしゃれなお店も知らないし
昔から、かわいいと思う服や雑貨の好みは変わらないので
年を取るに連れて、変わりゆく自分の外見との
ギャップが広がり、最近は
自分でももう、どうしていいのか分からなくなる時がある。

なのに、昨日、「おしゃれだね!!」とも受けとれる褒め言葉。
(勝手におしゃれだと言われたと解釈している。)
自分の自信のないところを、褒められるのは
どうしてこうもうれしいものだろうか!!

逆に言えば、これが自分のいいところだと思っているところを
ほめられたとして、もちろん、それはうれしいけれど
褒められることを当然のように受け止める
図々しい自分が存在し、うれしさも半減する。
例えば、私は、幼い頃、習字やそろばんを習っていたので
字を書くことや計算は、自分でもまあまあだと思っている。
シミやしわに目をつぶったとしても
肌の色の白さも、まあまあ、白い方だと思う。
だから、「字が上手だね!」とか「計算早いね!」とか「色白いね!」と
褒められることは、既に経験済みであるだけに
褒められて、有頂天になり、我を忘れるなどという
愚行はない。

ところが、自分に全く自信のないことを突如褒められると
その経験数があまりにも少なく、どぎまぎするのだ。
そして、未知の自分に遭遇したかのように
今回であれば「私って、もしかして、おしゃれなの!?」と
幸せな誤解が自分の中に生まれてしまうのである。
なるほど、これが、うれしさ倍増の原因である。

そうか、ほめられて、どうしていいか分からないときというのは
自分の中に、ステキな誤解が生まれ、ほめられた
うれしさを2倍、3倍と大量生産している時なのだ!
「絵がうまいね!」とか「優しいね!」とか「社交的だね!」とか「ステキだね!」とか
「かわいいね!」(もうこの年になればそうそうお耳にかかれないが・・)とか
言われて、どぎまぎした過去の自分を思い出す。

そう言えば、美人は、「きれいだね」と言われても喜ばないというのも、、納得である。
もったいない、わたしなら、その褒め言葉を
何十倍ものうれしさに変えられるというのに!!