いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

「ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛」 安冨歩 本條晴一郎

 

 世界は〇〇〇に満ちている。

〇〇〇に、いろいろな言葉を入れてみると

なかなか面白い。

 

では、ここに「ハラスメント」を入れてみる。

あまりのはまり具合に、ぞっとしてしまった。

 

セクハラ、パワハラアカハラモラハラ、マタハラ、、

世界はハラスメントに満ちている。。

なんたることだろう。

 

おまけにその恐ろしいハラスメントは、連鎖するという。。

私たちは、ハラスメントで覆われた世界に住み、そしてそれを内面化させている。

本書は、恐怖のハラスメントの仕組みを説明している。

そして、読者は、「しつけ」「教育」がハラスメント社会でどのような立ち位置にあるかという恐ろしい構造を知ることになる。

 

ハラスメント加害者のハラッサー、

ハラスメント被害者のハラッシー、

ハラスメント被害者加害者のハラッシーハラッサー

そして、二枚舌。

多くの人がこれらに分類されるとしたら、この世界は、地獄のような世界だ。

著者の言う「鉛色の空」は誰の頭上にも広がっているはずである。

 

そんな救いようのない世界に落ち込みそうになるが

この本には、この鉛色の空の下から抜け出すための方法が書かれている。

 

そのヒントを「否定と強制」から「受容と提示」という言葉から受け取った。

まずは、自分の子育てから。。

子どもの話を否定せず受け入れること。

子どもの行為を強制するのではなく、提示してみる。。

そこから、始めてみようと思った。

「もう「東大話法」にはだまされない」安冨歩

 

 著者は、日本は、民主主義ではなく立場主義だと言う。

立場主義とは、家制度の解体過程において、国民が家の構成員からそれぞれに立場があてがわれたということだ。日本に民主主義や個人主義はなく、あるのは立場主義。

立場を守るためなら何をしても何をやっても寛容な国、、

 

そして、その「立場主義」と切っても切り離せないのが「関所資本主義」であり「東大話法」である。

「立場主義」「関所資主義」「東大話法」

この3つの言葉ほどこの国が抱える諸問題を簡潔に適切に表した言葉はない。

 

立場を守るための東大話法が、国民を苦しめているにも関わらず

私たちは、しつけという名のものとに、教育という名のもとに

幼いころから立場というものを叩きこまれる。

成長し、立場の欺瞞に気がつきそうになると、周囲の大人に東大話法によってごまかされ、大人になると、自分自身を東大話法でごまかしていく。

 

日本人の人生はともすれば、欺瞞にみちた言葉と、空虚な立場にからめとられ

自分の地平ではなく、誰かの地平を生きることになる。

これを著者は、「魂の植民地化」という。

 

立場主義のエリートは、東大話法のエリートである。

そして、この国は、それらのエリートである官僚によって動かされている。

日本人は生まれながらに、立場主義と東大話法を内在化させてしまうのだ。

つまり、日本という国は自分の人生を生きることのできない、人権侵害の国ともいえる。

 

私たちは、それら人権を守るために、立場主義者の東大話法を見抜き、その欺瞞を暴かなければならない。

その具体的手法が、ドラマ「家政婦のミタ」にあるという話は興味深い。

東大話法を巧妙に操る相手に対し

「承知しました」という言葉で応戦する。

これは、実践する価値があるだろう。

 

著者は、あらゆる著作において、この国を憂うだけでなく、私たちはどうすればよいのか、どう生きたらよいのかを、常に考えていることがひしひしと伝わる。

生きるための学問を追求する著者の本を読まずして、この国を生きていくことなど、果たしてできるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

「「学歴エリート」は暴走する」安冨歩

 

 学歴エリートとは何なのか。

学歴エリートは、なぜ暴走するのか。

 

著者は、日本の学歴社会のトップに君臨する東大の卒業生たちが

なぜ就職先に公務員を選び、民間企業においても金融機関などに

こぞって就職するのかを、データをもとに分析し解き明かしている。

また、日本の学歴エリートが、戦後80年近くたった今もなお

戦前の官僚の流れを汲んでいることに言及している。また、明治以降の日本の学校教育の問題が、軍の余剰人員となった下士官を学校に送り込んだことが要因となっていることにも触れている。

 

いまでこそ、教員の体罰は禁止されているが、30から40年前の私の学生時代には

教員が竹刀や棒を持って教壇に立つのが当たり前の光景だった。あれが下士官の名残だったのかと思うと、あの時代の教員は自分たちがしていることに無自覚であったとしか思えない。そうして、無自覚であったからこそ、彼らは罪深いのである。

 

昔、勉強したらバカになる、、言われる時代があった。

つまり、これは、正解を追い求めるような勉強ばかりしていると、正解のない不測の事態に陥った時に、思考停止になり、フリーズしてしまうということである。

私たちは、正解のないものが圧倒的に多く、いつどこで何が起こるのか予測できない世界に生きている。東大に入学することが人生の幸せと直結しないことは明らかである。

 

なのに、なぜ、東大卒がこれほどもてはやされるのか。

そこに、東大をもてはやすための恐ろしき東大話法が存在するという欺瞞性があるのであった。(おお、こわっ。)

 

この本の最後の方には、植木等の歌が紹介されている。

なぜ植木等に行きつくのか、それは、本著の目指すところであった。

本を読み終え、さっそくYouTubeで、植木等の歌を聞いてみる。

 

「そのうち何とかなるだろう」

 

私たち日本人に、今、最も必要な言葉だ。

 

「仮面の告白」三島由紀夫

 

仮面の告白 (新潮文庫)

仮面の告白 (新潮文庫)

 

 

三島由紀夫の日本語は、なぜこれほど美しいのか。

情景描写、心理描写を巧みな日本語で表現する

三島以外の日本人がいるのだとしたら、教えてほしいものである。

 

とはいえ、私が読んだ三島作品は、実はこれで2作目。

そして、2作目にして、私は三島に確実にノックアウトされてしまった。

彼の日本語は、あまりに美しすぎる。

私たちが今使っている日本語とは、似て非なるものである。

日本語がこれほど素晴らしい言葉なのだということに

三島から繰り出された言葉の数々から、大げさだが震えがとまらなかった。

 

もっと、早く、三島作品を手に取ればよかった。。

後悔の念が渦巻いた。

戦後文学の代表的名作であるこの作品を手に取るには

私はあまりに年を取りすぎているのではないか。

もし、もっともっと若いころにこの作品に出会っていたのなら

私のこの国の、この国の言葉に対する意識は、ずいぶんと違ったものになっていたのではないかと、ふと思った。

 

しかし、、と思う。

本との出会いは必然である。

出会う時、出会うべくして出会う。

もし、若いころに読んだとしても

若さゆえの知識や経験の浅さが、多様性社会とは程遠い、当時の社会の価値観に阻まれ

色眼鏡でこの本を読んでいた可能性が高い。

やはり、今、この年になって出会うべき本であったのだろう。

 

「ありのままの私」安冨歩

 

ありのままの私

ありのままの私

  • 作者:安冨 歩
  • 発売日: 2015/07/30
  • メディア: 単行本
 

 これまでに何冊か安冨先生の本を読んだことがある。

生きるための論語

生きるための経済学

複雑さを生きる など

どれも、読み進めるのにかなりの時間を要したし

一度読んでもその中身を理解できたかと言われれば

答えはNOかもしれない。

 

その中で、この「ありのままの私」は圧倒的に読みやすかった。

本の装丁、平易な言葉による説明は

まるでどこかタレント本のようでもあった。

すらすらと読め興味深く、楽しめたが

その中身は、やはり、安冨先生のエッセンスが詰まった

命を張った学問本であることに変わりなかった。

 

この本には、玉田兵吾という詩人の詩がいくつかのせられている。

その中のひとつ

「わたしの好きなこと」という詩は、ショックだった。

けれど、そのショックを受け止めることから

わたしを生きることが始まるように思えた。

 

 

「デフォルト」相場英雄

 

デフォルト〔債務不履行〕

デフォルト〔債務不履行〕

 

 

経済小説は、めったに手に取らない。

経済用語が頻繁に飛び交い、登場人物が多く

それらを追うのに精いっぱいでなかなかストーリーを楽しめないから。

 

とはいえ、そんな苦手なこの類の小説も時々読みたくなる。

そういう時は、どうにもならない社会へのもどかしさで

うつうつとしている時のような気がする。

 

現在、このコロナ禍で、政府の無能ぶりをいやというほど見せつけられる毎日。

この本を手に取ったのも、なるほど当然なのである。

 

バブル崩壊不良債権処理をめぐる政府、日銀、銀行の動きによって

罪なき人が死に追いやられる。そして、巨大な組織に個々人が復讐を挑んでいく物語。

巨大組織の個人攻撃は、小説の世界の話ではなく、現実世界でもあらゆる場所で行われている。

しかし、この巨大な組織に個人が挑むことが、現実世界でもあるのだろうか。たとえ、挑んだとしても、現実は、システムの暴力が個人を強力に無力化する。

 

巨大組織の闇に迫り、復讐を果たす。

小説は、小説でしかありえないのだろうか。

 

「だれも知らない日本国の裏帳簿」 石井紘基

 

だれも知らない日本国の裏帳簿

だれも知らない日本国の裏帳簿

  • 作者:石井 紘基
  • 発売日: 2002/01/22
  • メディア: 単行本
 

 ボロボロになったこの国の立て直し方が、ここには記されている。

しかし、もう、石井はいない。

悔しすぎる。。

 

この本が発行されたのは、2002年。

その時点で日本は、もはや死に体であった。

あれから18年。

死に体である日本の国家体制を維持するために、自民党政権が行ったことは

異次元の金融緩和だった。財投による特別会計というまやかし経済体制がすでに破綻していた日本は、日銀を巻き込むことでしかこの利権構造を維持することができなかった。

 

利権にまみれた官僚政治構造を率いてきた官僚、官僚に支配され、その甘い汁に群がる政治家、そして、その利権政治に群がる企業やマスコミ。誰も教えてくれないこの国の真実が、この本に克明に記されている。

 

データ改ざんは、安倍政権になってから始まったのではない。

一般会計と特別会計という二重財政そのものが、究極のデータ改ざんである。本書に書かれたこの国の本当のGDPの内訳を見れば、日本がいかに虚飾に満ち、改ざんにあふれた国であることがよくわかる。

この国は、資本主義国家でも、民主主義国家でもない。

官僚と政治家、特殊法人及び関係企業からなる卑劣極まりない国家体制によって国を運営しているのだ。

 

コロナ拡大のためとしか思えないGOTOキャンペーンも

この状況でも開催しようとする東京オリンピック

桜を見る会モリカケ問題も、そして菅政権誕生も、

国民からの搾取構造で出来上がったこの茶番国家にとっては、当然の出来事だったのだ。

 

あー、日本人であることが恥ずかしい。

そして、何も知らずにすっかり大人になってしまった自分が恥ずかしい。

学校教育をすべて信じていた自分が恥ずかしい。

 

しかし、恥ずかしがっていても何も始まらない。

国の裏帳簿の事実を知ったからには、自分が未来に向かってできることをやるしかない。

それは、この本に書かれた事実を、子どもたちに伝えることである。

この国に生まれ、この国で育つ子どもたちに、この国の搾取構造を教えることである。

国の現状を知らずに生きることほど、不幸なことはないのだから。