いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

祝! 10才!!


今日は、娘の10才の誕生日

数日前、「誕生日の日は何が食べたい??」と尋ねたところ、
「お寿司!!」との答え
近所の回転寿しへ行きたいらしい
平日は、家族そろっての外食は難しいので、
回転寿しでのお祝いは、誕生日直後の週末に
ということで、話はついた。

今日は、とりあえず、アップルパイでお祝いだ
お誕生日おめでとう

10年前の2000年6月16日午後8時◯◯分、
娘はこの世に生まれ出でた。
2,366グラムのやや小さめの体重で。
母親である私は、15kgも太ったというのに、そのお肉は
ほとんど私についたものだったのねえ

痛いことが非常に苦手な私は、出産することがものすごく不安だった。
いや、もうそれは、恐怖に近い感情だった
そんな、母親の胸の内を知ってか知らずか、予定日を10日を過ぎても
娘は、ちっとも、トントンとこの世へのドアをノックする気配がなかった。

やむを得ず、強制的に陣痛を起こし、早くでてきておくれ
ということになったが、それから2日経っても、私のおなかの中に隠れていた。
そのかくれんぼに、母娘ともに精魂を使い果たし、
結局おなかを切っての出産となった。

私の出産の恐怖は、結局、帝王切開という形で終止符がうたれた。
息子の時もまた、予定帝王切開での出産だったので、
ついぞや、お産の痛みを知らないままだ

かなりの難産だったので、娘は生まれたとき、心音も弱く、かつ
のどに異物がつまっていて、産声を上げなかった。
異物を取り除いてから、やっと「オギャー」。その間、45秒。
私は、麻酔で眠っていて、そのときのことは、ちっともわからない。
私が、グーグー眠っているとき
主人は、お医者さんにこう告げられていた。
「子どもさんには、何らかの障害が残るかもしれません。」

無呼吸状態の45秒間が、赤ちゃんにとってどのような事態を招くのか?
母子手帳にはしっかりと、こう書き込まれていた。
「低体重出生児 仮死」

娘はNICUの保育器の中で数日を過ごした。
3、4日後には保育器を出ることができて、大きな泣き声に
ほっとしたのも束の間。
次は、こう告げられた。
「反り返りが強いですね。でも首や体全体がだらんとしています。
リハビリが必要ですね。」

出産から10日後、母娘無事退院。
そのとき、担当の看護士さんから、こう教えてもらった。
「子どもさんは、生まれたとき70%死んでた状態だったんですよ。」

退院してから、週に一度リハビリに通う日々。
「いつ首がすわるか、わからない。」
「はいはいの仕方がおかしい。」
「歩くのには時間がかかる。」
そんな診断を受けながらも、ほとんど標準的な時期に
首もすわり、歩くこともできた。

歩くことができるようになるまでの、1年と少しの日々は
ほんと無我夢中だった。
10年後の、こんなに元気な娘を想像だにできなかった。
あの日々はいったい何だったんだろう??

けれど、無我夢中だったあの日々が、恐怖にも似た、出産と育児の不安を
私から、少し、取り去ってくれたような気がする。
「なんにも、怖がることないんだよ、なるようになるさ」と。