いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

無償の愛について

「無償の愛」

親の子に対する愛情を、こんな言葉で言う人がいるけれど
実はこれは、全くの反対である。
子育てをした実感である。

言うことを聞かない子どもたちにイライラする「私」。
時には、叱り飛ばす「私」。
「私」の機嫌がよいときには、たいていのことには、
「まあいいか。」と目をつぶれるのに、
「私」の機嫌が悪いときには、すべてのことが気に障る。
こんな「私」の子育てのどこが「無償の愛」であろうか。

ところが、こんな「私」に対して、子どもたちが「私」を非難することはない。
「私」の存在をありのままに受け入れている。
まるで「そのままでいいんだよ」と言わんばかりに
「私」に対する態度は、変わらない。
これが「無償の愛」でなくて、なんであろうか。
「私」は、日々「無償の愛」を受けているのである。

以前、知人がこんなことを言っていた。
「私、こんなに愛されたこと、生まれて初めて!!」
当時1才の男の子を育てていた彼女の言葉である。
これには、ホント、納得である。

生まれたばかりの子どもたちが「無償の愛」という
高い精神性を持つのに対して、ごく普通の社会生活を行っている
大人は、この「無償の愛」を与えることが、なぜ難しいのか。

「与える」。
もうその言葉を使う時点でアウトである。
つまり「無償の愛」を認識してしまっている「私」がいるから。

生まれたばかりの子どもには「私」がない。
だから、無償で愛することができるのではなかろうか。
せっかくのこの高い精神性を維持することは、できないんだろうか。

人は、ある時点で「自我」というものに目覚めるようになっているらしい。
「自我」を獲得すると、世界を「私」の目で認識する癖を持つ。
「私」の目で見る世界。それは、自己中心の世界である。
その世界で「無償の愛」を与えるということがどんなに困難なことか
想像に難くない。
ごく普通の「親」にそれができないのは、ごく普通のことである。

これを乗り越えることが、人のさらなる精神性の高さにつながるのだろうか。
意識せずして持っていたものを、意識することによってそれを困難にするなんて。
人というのは、まあ、なんとも面倒にできているものである。

「自我」に目覚めたときから、人は、生きづらくなる。
ありのままをありのままに受け入れることが難しくなる。
この「自我」は増大する可能性を持つ。
「自我」が「よい自我」とは限らない。
そんな「私」ばかりの世界が、生きづらい社会となるのは当然の結果である。

だったら、「自我」を抑制すればよいのではないか。
増殖しようとする「自我」を抑制する。
そうすることで、ありのままを受け止める「目」を育てることができないか。

「自我」に目覚めようとする、子どもの頃に
無秩序な「自我」を徹底的に抑制する。
宗教法人による学校などは、実はこれを人間教育としているのではないか。
「スパルタ教育」なども、その是非はともかく
「自我」の抑制が、その教育の根源にあったのではないだろうか。

公教育は、今、「個性」を伸ばす教育などといっている。
しかし、何を間違ったのか、この「個性」を「自我」と混同してしまった。
このことが、今の子どもたちの問題ではないのか。

今の子どもたちが、「子ども」でなく、ちいさな「大人」であるのは
無秩序な「自我」の抑制の必要性を忘れた、大人の作り出した、無秩序な教育のせいではないか。
「自我」によって苦しむということを、大人は嫌というほど知っているはずなのに。

専門家ではないので、具体的な手法などわからない。
けれど、なんだか、そこに、混迷する教育の突破口があるような
気がしてならないのだけれど。。

「自我」に目覚めようとする時期を迎えている娘を前に
今日は、こんなことを考えていた。