いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

通知表不要論

今日は、長男の小学校の終業式でした。
通知表を携えて、帰ってきた息子は
何かをぐっとこらえているのが分かりました。

通知表を見ると
今までになく、厳しい通知表。
とはいえ、今までがよかった、、というわけではありません。
いたって、普通の通知表でした。
ところが、今回は、初めて、△がついていました。
それも生活欄のところに。。
これは、教科評価に△がつくよりも
こどもにとっては、ショックなことなのだなと改めて思いました。

ということで、今日は、通知表について考えたことを書きたいと思います。

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子どもの頃、妙に学校の成績がよかった私は
通知表をもらうのが楽しみだった。
そして、それを親に見せるのが楽しみだった。
親の嬉しそうな顔を見るのが楽しみだった。

なぜ、学校の成績がよかったのか、、と今考えると
ちょっと怖くなる。
私が、成績がよかったのは、学校を妄信していたからである。
先生の言うことは正しいと信じ
先生が自分の短所を指摘すれば
それはすべて自分が悪い、自分の責任だと思っていたからだ。
私は、大人がいうこと、先生がいうことを
実行するのみの、ロボットだった。
批判精神を持たない、単なるバカだった。

ということは、つまり、学校は
私のようなバカほど高く評価するところなのである。。

学校を妄信していた私は、それ以後ウン十年も
学校の呪縛に苦しんだ。
学生時代、先生に高く評価されること、テストで正解を探し当てることで
自分自身をかろうじて保っていた。
しかし、社会人になって、評価や正解というものが
じつはまともに存在しないということを知り
自分の根幹を保てなくなってしまった。

学校の成績なんて、生きるのに何の役にも立たなかった。
害悪でしかなかった。
だから、こどもを評価する通知表なんていうものは、不要だと強く思う。

今日、息子が通知表を持ち帰った。
教科はほぼすべて、真ん中の評価
生活欄には、二つの△がついていた。
息子は、半泣きで、担任のくそやろう!!と言っていた。

息子が、私のように学校を妄信することはないだろう。。
そう思うだけで、ホッとするのであった。