いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

うそをつく

昨日のことである。

学校へ向かった後の、中学生の息子の部屋に入ると

机の上が、取っ散らかっていて

いつのものだかわからないプリントがてんこ盛り。

保護者あてのプリントがあるんじゃないかと

プリントをごそごそと探っていたら

とあるモノが出てきた。

それは、冬休みの課題。

 

とっくの昔に終わった冬休みの課題が

2月ももう終わろうとしている今にいたって

彼の机にいまだ鎮座マシマシしている。

どういうことだ!!(怒怒)

 

怒が一つではなく、二つなのは

実は、これに、ちゃんと前置きがあるからだ。

この課題は、冬休み明けの提出日ののちの1週間後

つまりひと月以上前にすでにワタシによって発掘されていた。

 

当時

ワタシ「提出しなさい」

息子「提出してきた」との会話が交わされ

一件落着したはずだったのだ。

 

つまり、あの時、息子は、「提出していない」のに「提出した」とうそをつき

ワタシは、その嘘にまんまと騙されたというわけだ。

提出日に遅れたモノを提出するときのばつの悪さも

先生という生き物になかなかなつけない感じも

首が痛くなるくらい、わかる。

だけど、時間をかけて頑張った課題を、いとも簡単に見捨ててしまい

そして親にも先生にも怒られたくなくて

「提出した」とうそをつくことは、やっぱり、親としては見過ごせない。

 

こういう時、育児書なんかだったら、きっと

子どもの口から事情をよーく聞いたうえで

うそをついたりごまかしたりすることはいけないことなんだよと

優しく教え諭す、、って感じなのだろうが

ワタシは、どうしても冷静になれず

頭でシュンシュン湯を沸かしながら、ガミガミ怒ってしまう。

こういう叱り方はダメだと分かっていながら、

今回もやっぱりガミガミ怒ってしまった。

 

ワタシだって、子どもの頃はさんざんうそをついた。

やったことをやっていない

やっていないことをやったといい

その場、その瞬間の自分の身を守ることに必死だった。

親は、それらの嘘を、きっと二種類に分類していた。

見逃していい嘘と見逃してはならない嘘。

 

見逃してはならない噓をついたとき

ワタシの母は、今の私のようにガミガミ怒らなかった。

そういう時、母は決まって

乾ききった冷たい目でわが子を見た。

その目を見て、嘘のつき方を学んだような気がする。

 

人間は、成長するにつれて

嘘が自分を守るどころか、多くの場合不利益をもたらすことを

身をもって学習する。

そうして、人間に必要な嘘が何かを見極めながら

社会生活を送るようになる。

人間は、誰でも大なり小なり嘘をつく生き物だが

嘘をつくにも度合いがあるんだなと思って生きていくようになる。

怒られたり、冷たい目で見られたり、

友達を失ったりしながら、嘘は経験で学んでいくものだと思う。

 

この国には、嘘をついたらどうなるかというわかりやすいことわざがある。

そう、「うそつきは泥棒の始まり」。

一度聴いたら、二度と忘れることがないほどのインパクト。

嘘をつくたびに、嘘をつかれるたびに、双方の心に浮かぶことわざ。

 

だから、親は子どもを「泥棒にはさせたくない!」と思い

叱られた子供は「泥棒にはなりたくない!」と思って

嘘の何たるかを知るのだ。

 

そういえば、国権の最高機関たる国会で

百数十回の嘘を積み重ねたおじいさんがいたけれど

あの人は子どもの頃、嘘をついて

「うそつきは泥棒の始まりですよ!」と怒られたことがあったのかなあ。。

なんだかかわいそうにさえ思えてきた。。