いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

事実と真実と意見

「人は何のために生きるのか。」
そう問われれば無言になるだろう。
考えたことがないからか。
いや人である限り誰もが一度は考える。
考えても、それにまつわる本を読んでも
私にはいまだわからないからだ。

よく、人は言う。
「人のため、自分のために生きるのよ」
そうだろうか、本当にそうだろうか、絶対そうだろうか。
私にはわからない。
そんな言葉は私の中で上滑りしてしまう。

この世の中には事実がある。
誰から見ても、確かなこと。
ここに「在る」こと。
疑いの余地がないこと。
では、本当にそうだろうかと疑念を抱くのはどういうことに対してか。
誰にも分からない真実を、在るのかどうかさえも分からないものを
これだと言いきることに対してだ。
もしかしたら真実かも知れない。
けれど、本当にそうだとは言いきれないのでは。
それはあなたの「意見」なのでは?
そう、意見と真実をない交ぜにされた時、対象に深い疑念を抱く。
だから、宗教にうさんくささがつきまとうのは事実である。
「信じる者は救われる」のか??
わからない、分からない。
だから、分からない、分からないと語るそのことのみが
真実である。

意見を真実と信じればこんなに楽なことはない。
なぜか、考えなくてよいからだ。
わからない自分に向き合わなくてよいからだ。
無心になること。信じること。
それは意見に対してではない。
分からないという真実に対して。
ただそれのみだ。

意見と真実を混同させ、人を無心にさせようとする手法が至るところで目につく。
自分の意見を持てと言われる。それが個性、自己実現、生き方だと。
うわっ、書いていてビックリした。
人のため、自分のために生きるとはやっぱり意見だ。
だから、私たちは生きる術を持ち合わせねばならない。
「わからない」ことを「わからない」と知ることを。
この世で自分の身を守るための具体的手法を。

「わからない」ことを「知りたい」、だから生きている。
「わからないこと」が「真実」なのである。
なぜ生きるのかと問われれば、それしか言えない。
年を重ねるごとに、人生の機微が分かるというのは
分からないことが分かるということではないか。

わからないことを断定的に語るのは意見である。
それは真実ではない。
意見と真実を混同するから混乱する。
事実は在る事象。
事象から意味を取り出すべく考えて意見となる。
意見は常に個人的なものだ。
意見を戦わせることがいかに不毛なことであるかがよくわかる。
だから私は黙する。


そして、私はそのことでここ数日頭がもやもやとし
不機嫌きわまりなかった。それは事実。