いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

自己責任と無責任

昨日の午後、テレビを見ていたら
ふと、父のことを思い出した。

3年半前、父は脳出血で倒れた。
手術をすれば命は助かる。
しかし、出血はひどく、後遺症は免れない。
おそらく寝たきりであろうと医師は説明した。
「さあ、手術しますか?」

このとき、父の命は宙に浮いたのだ。
本人の意志の届かないところで
父の生と死の選択が行われた。
家族は、生を選んだ。
寝たきりで言葉を失った父は
その時の家族の選択をどう思っていたのだろうか。
今となっては知る由もない。

命を救うことのできる医師は
命の選択を家族に委ねる。
後遺症に伴う、本人や家族の暮らしについては
いっさい責任を負わない。
後遺症が残るという説明責任を果たし
約束通り命を救う。
その後は、生を選択した本人と家族の責任となる。
「自己責任」

尊い命は、本人の人格の尊厳を第一義にしてこそ
守られるべきもののはず。
究極の選択を迫られたとき
その瞬間の一時的責任が
その後の長い無責任へとつながりかねない。

「自己責任」と「無責任」とは、紙一重なのである。
医師だけの責任でもなく
患者だけの責任でもなく
家族だけの責任でもない。
一般的で、誰にもでもわかりやすい結果を重んじることは
知らぬうちに、選択の自由を他人や社会常識に委ねてしまう。
本当は、ひとりひとり全く違う人生を生きているというのに。

自分の人生に覚悟を持って生きたとき
責任の所在を自己にのみ帰結する「自己責任」も
責任の押し付け合いから始まる「無責任」も
消えてなくなる。
自分も責めず、誰をも責めない。
そのために、いかに生きるかをずっとずっと考える。

それが、父が私に残してくれたものだ。