いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

堂々めぐり

私の母が、母親の感覚が
ちょっとずれているのではないかと気づいたのは
私自身が子どもを産み、母となってからである。

子どもの頃、母という存在のサンプルは、自分の母であり、
そのサンプルはいたって標準的なものだと思っていた。
いや、標準的どころか、スーパーだと思っていたかもしれない。
父を助けて働きながら、家事もこなし、料理も裁縫も上手で、字もきれい。
母は完璧で、母の言うことはすべて正しいと思っていた。

それでも、時々はあれっと思うこともありはした。
例えば、母はよく、こんなことを口にした。
「子どもを生んで、育てても、何にもならない」とか
「たとえ離婚しても、子どもは引き取らない」とか。
そういう類いのことを子どもの前で平気で言った。

母の言葉は、幼い子どもにとって神の言葉にも等しい力を持つ。
母のそういう言葉を耳にして育った私は
子どもを持ち、母になることがとても怖かった。

でも、私は、母になった。
母親になって、子どもを育て、年月を重ねるごとに
母の感覚や考えは
母親の標準的サンプルではなく
どちらかと言えば特異なサンプルではないのかと気づいた。

それから、子どもの頃の母親の言動を
ひとつひとつ鮮明に思い出すことが増えた。
同時に、その時の自分の感情もよみがえった。
母親が正しくて、悪感情を抱いた自分が悪いのだ思っていたことも思い出した。

ようやく今、あの時の自分の感情を肯定できる。
私が抱いた悪感情を肯定できる。
なぜなら、あの時の母の言動を
今母となった私は、肯定できないから。
一人の母親として、一人の母親を見る目を得たから。

母親の目で、母を見るようになって以来
私は、母に対して、悶々とした気持ちを抱くようになった。
けれど、同時に、それでも、母が生み育ててくれたから、今の私があるという
思いが浮かび上がる。
母への思いは、ずっと堂々めぐりだ。