いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

自縄自縛

長女には、本当に手を焼いた。

よく言えば、活発。

悪く言えば、危なっかしい。

彼女の頭には、次から次にアイデアが浮かぶようで

そのアイデアを吟味することなく、即行動する。

幼いころから、けがやトラブルが絶えず

ハラハラしどおしだった。

 

危ないからと何かを禁止したり

夢中になりすぎるからと何かを取り上げたりしても

彼女は必ず小さなほころびを見つけ、そこから抜け出した。

 

縄でどんなに縛っても、必ずするりと抜け出す。

そんなたとえがぴったりかもしれない。

今思えば、あれこそが「生きる力」ではないかと思う。

 

対して、長男にはそれほど手がかからない。

よく言えば、慎重派

悪く言えば、肝っ玉が小さい彼は

幼いころから、危ないと言われれば、手を引っ込め

禁止されていることは、あっさり引き下がる。

 

縄で縛ると、そこから抜け出そうとしない。

まるで誰かが縄をほどいてくれるまで、じっと待っているさまは

親として、時々不安になることもあるが

それでも、少しずつ、ほころびを見つけては、抜け出そうと試みたり

親の目を盗んで何かをしようとしたりする姿があることに

ちょっとほっとしたりもする。

勉強ができるとか、スポーツができるとか、そういう数値に表れるものではなくて

何というか、人として生きていくための成長のようなものを感じるから。

 

子どもに必要なモノがあるとすれば、あれほど手を焼かせた長女のもつ危なっかしさのような気がしてならないし、そうであることが子ども本来の姿だと思う。

手がかかる、手をかける、手を焼く、手を焼かせるのは

大人と子どもの当たり前の関係性のはずで

それを端折ることの影響は、のちのち違った形で表れるようで怖い。

 

娘と息子は8歳の年の差がある。

息子は、現在中学生だが、8年前、当時中学生だった娘の年代の子どもたちと比べると

今の中学生の子どもたちの質がすこし変わってきたような気がする。

とにかく、おとなしい印象なのだ。

長いものには巻かれてしまう。表立った抵抗や反抗心は見えず

大人に従順な子どもたちの割合が増えている気がするのだ。

 

娘たちの頃は、制服を着崩し、校則違反の髪型をし

先生に反抗し、喧嘩をし、学校を抜け出すなど

ある意味での「逞しさ」があった。

息子の年代には、その「逞しさ」が薄れいている。

 

子どもたちを縄で縛る必要などない。

それは、のびのびと子どもたちを育てるという意味ではなく

縄を目の前に置けば、自らをその縄で縛りつける。

実は、そんなことが、学校の最終目標になっているのではないかと不気味に感じている。