いのししのひとりごと

ワタシノトリトメナイハナシ

すべては大人の責任

昨日の朝日新聞にこどもの体力低下の記事があった。
データだけではない。
身近な我が子を見ていて、それをひしひしと感じる。

まず、中1の娘。
逆上がりができない。
縄跳びの二重とびができるのが、とても遅かった。
顔から転ぶ。
とにかく、信じられないようなけがをする。

次に、4才の息子。
ブランコがこげない。
小さい割に体が硬い。

二人とも運動能力に????と思う時がある。
これは遺伝の話ではない。
絶対的に環境の問題である。
こどもは悪くない。
すべては親の責任なのだ。

私も主人も田舎育ちなので、二人とも小さい頃からよく体を動かした方だと思う。
鉄棒も逆上がりも難なくできたし
走ることも、投げることも、人並みだったと思う。
飛び抜けてできた訳ではない。それが普通だった。
当時、親は、こどもが家の中で遊ぶことをいやがったし、
何やかにやと言われ、外で遊ぶことを強制されたものだ。
そうやって家を追い出された近所の子たちが自然と集まり
走ったり、飛んだり、投げたりという
動作の加わった遊びをしていた。
体を鍛えようなどと思ったこともない。
その意志がないからこそ、体にしみついた
体そのものが覚えた感覚があるのだ。

こどもの体を鍛えるために外で遊ばせようなどど
親は思っていたであろうか。
うるさいこどもは外で遊ばせ、大人は家でゆっくりしたかっただけのはずだ。
けれど外で何かあれば、親はいつでも出て行く。
その責任感があったからこそ
こどもを外で遊ばせた。
と同時に、こどもが外で遊ぶことが成長に欠かすことができないことを
親自身が身体感覚として自覚していた。
頭ではない、体でだ。
こどもが家の中で遊ぶことは、普通ではないという実感があった。
なぜか。人間は、動物だから。

計算ずくでないこの企みが
こどもにとっても親にとっても合理的な
まさしくWINWINの関係だった。

打算なき世界でのみ、すべては中庸となる。
物事はなんと滑らかに進んで行くことだろうか。


さて、今にかえって考える。
こどもが、近所のこどもと遊ぶのにも気をつかい
けがをさせたら、けんかをしたらと
相手の親ばかり見てしまう。
必然的に家の中で静かに遊びなさいとなる。
こどもが静かに遊べるはずなどない。
けれど、頭でっかちになると、それができると思うのだ。
思いは世界をゆがめる。
ゲームやDVDなどのメディアにこどもを預けた。
親にとってこれほど楽なことはない。

そうして体力が衰えたこどもを憂え
次に何をしたのか。
体操教室やスイミングクラブに通わせる。
一定のリズムを刻ませて体を鍛えようとする。
誰かに任せて、親はまた楽な道を選ぶ。

そうして、親は子育てを省力化することで
いったい、何をしてきたか。
反省すべき時が来た。
子育てとは、「子」育てだ。

箸や鉛筆などの生活に欠かせない道具使いさえ
グッズがなければこなせないのか。
そのうち、ごはんの食べ方、顔の洗い方まで
外注する世の中が到来するのではと
冗談めかして考えながら
それもあり得ないことはないと
思ってしまう現実がそこにある。

さて、今、私は何をすればよいのだろう。
考えさせられた記事であった。